武田信玄(たけだしんげん)(1521―1573)
戦国大名。初め甲斐(かい)国、のちには信浓(しなの)・骏河(するが)と、上野(こうずけ)・飞騨(ひだ)・美浓(みの)・远江(とおとうみ)・三河の一部を领有する大大名となる。父は信虎(のぶとら)。母は大井信达(のぶなり)の娘。幼名を太郎、胜千代といい、元服して晴信(はるのぶ)と称した。官位は大膳大夫(だいぜんだゆう)、信浓守(しなののかみ)に任ぜられ、1559年(永禄2)に出家して信玄と号し、法性院(ほうしょういん)、徳栄轩(とくえいけん)とも称した。
1541年(天文10)に、暴政を振るって家臣団から见放された父信虎を骏河の今川义元(よしもと)のところへ追放し、家臣の支持を得て当主となった。家督相続の直後から信浓への侵入を开始し、诹访(すわ)氏、小笠原(おがさわら)氏、村上氏などの信浓の诸大名を制圧し、领国の拡大を図った。そのため南下策をとっていた长尾景虎(ながおかげとら)(上杉谦信(けんしん))と対立することになり、1553年に両者は初めて北信浓で冲突する。その间信玄は领国内の制度の整备にも力を入れ、1547年には「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」を制定している。败走した村上・小笠原氏らは越後(えちご)の长尾景虎に助力を求め、谦信は以後连年にわたって信浓へ出兵し信玄と対决した。これが著名な川中岛(かわなかじま)の戦いで、1564年(永禄7)までのおもな対戦だけでも五度に及んだ。とりわけ1561年の対戦は有名で、真伪は不详であるが、乱戦のなかで信玄と谦信との一骑讨ちが行われたという俗说が残されている。谦信との対决でも优位を保った信玄は、その後、隣国の北条氏康(うじやす)、今川义元との婚姻による三者の同盟関系を梃子(てこ)に、西上野(こうずけ)に侵入し、北関东の领有をねらった。ここでも谦信と対决することになり、信玄は小田原北条氏と连携して谦信の南下を阻止した。同时にこのころから飞騨・美浓へも侵入し、金刺(かなざし)・远山氏などの旧族を灭ぼして领国化した。1567年に长男义信(よしのぶ)を反逆罪で刑死させると、その妻(今川义元の娘)を今川氏真(うじざね)のもとへ返し、今川氏との同盟関系を绝った。信玄は翌年の暮に骏河侵攻の兵をおこし、1569年4月には氏真を追放して骏河を领有した。同时に远江へは徳川家康が侵入し、今川氏は灭亡する。この事件を契机として、それまで同盟関系にあった北条氏と敌対することになり、信玄は北条氏と骏东(すんとう)郡・伊豆などで激しい戦いを缲り返した。1569年10月には、北条氏の本拠地である小田原城を包囲し、ついで相州(そうしゅう)三増(みませ)峠の戦いでも胜利を収めて、北条氏政と兴津(おきつ)に対阵、伊豆に进攻した。しかし1571年(元亀2)には北条氏康の遗言によって和议を结んだ。信玄は北条氏との対决の过程で、関东の诸大名とも同盟関系を结び、常陆(ひたち)の佐竹(さたけ)氏、安房(あわ)の里见(さとみ)氏らに接近している。
北条氏との和议の成立後は、信玄の目标ははっきりと上洛(じょうらく)のための西上(さいじょう)作戦に向けられ、1572年に入ると、远江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた织田信长との対决が始まった。同年10月には、信玄自ら大军をもって甲府を出発し、西上作戦を开始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方(みかた)ヶ原で家康・信长の连合军を打ち破った。その後进んで三河へ侵入し、徳川方の诸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌1573年4月、三河野田城(爱知県新城(しんしろ)市豊岛(とよしま)本城)を包囲中の阵中で病床に伏し、いったん甲府へ帰阵する途中の信浓伊那谷(いなだに)の驹场(こまんば)(长野県下伊那郡阿智(あち)村驹场(こまば))で4月12日、53歳をもって病死した。信玄の死は信玄の遗言どおりその子胜頼(かつより)によって3年间隠された。1576年(天正4)4月に本葬が営まれ、恵林寺(えりんじ)(山梨県塩山(えんざん)市)が墓所と定められた。法名は恵林寺殿机山玄公大居士。その後、胜頼によって高野山(こうやさん)へも分骨が行われ、その际、信玄の画像や遗品などが奉纳されている。信玄の迹目は四男の胜頼が継ぐことになった。
信玄の政策として特徴的なことは、早くから领国内の交通路を整备し伝马制度を确立させたことや、治山・治水に力を入れて信玄堤(づつみ)などを筑いたことである。また占领地に旧城主や重臣を配置して支城领を形成していったこと、さらには、领国内の农民支配のための検地の実施や人返し法、商人・职人などを甲府へ集めて城下町を建设したことなどがあげられる。现在、高野山成庆院(せいけいいん)に残っている信玄の画像があるが、晩年の信玄は僧体で、恰幅(かっぷく)豊かな姿に描かれている。和歌や诗文の才もあり、戦国大名としては、文武両道を备えた名将であったと思われる。