日语中为何会用被动语作为敬语?这是出于什么逻辑?跟日本的文化和日本人的价值观有什么关系吗?求解

2025-04-30 07:14:56
推荐回答(3个)
回答1:

好问题!

遗憾的是,该问题日本语法学上也没有统一的真正的答案。
日本文化和日本价值的关系太高大上,逻辑跨度太大,不是搞学问的态度。
我个人喜欢的一个说法如下。按逻辑顺序进行解释

一,动词使用被动的形式来表示尊敬(注意,只是形式上和被动形态一样而已)一般都是被限定的动词,如食べる、思う、来る、见る等,这些动词有一个特点,就是强调动词的主体(某人)很主观地进行很确定的动作。

二,助动词「れる」、「られる」这种接续,形式上有「受け身」、「可能」、「自発」、「尊敬」这些用法。所以,这里不应该是“被动”而应该是“尊敬”用法。虽然形式上都是一样的形式。

三,那么,为什么被动和尊敬居然可以用一样的形式呢?(楼主想问的应该是这个吧?)
①「れる」、「られる」的尊敬用法应该是从「自発」用法中产生出来的
理由:『日本语の文法における自発(じはつ)とは、 动词の表现様式で、行为・动作を人が积极的意志を持って行うのでなく、自然にあるいはひとりでに実现する现象・作用のようにいう表现である。助动词の「れる」「られる」などによって行われる。』(引用wikipedia)
为什么这么说呢?
「尊敬用法というのは、必ず尊敬すべき主体による主体的行为や动作を表わすことになります。
こうした「主体的行动や动作」であるにもかかわらず、
「(その)人が积极的意志を持って行うのでなく、自然にあるいはひとりでに実现する现象・作用のようにいう」ことによって、
その人の人间臭さを消すことを画策し、そのことによって相手を人间以上の価値を持った存在として持ち上げているかのように表现する。
これが尊敬用法の根干的な构図ではないか、という気がします。」

以上。楼主自己理解下,不懂问我吧,这些都是未解决的课题,没有什么对错

回答2:

我觉得更多还是被动语显得更加客观地描述一种状态吧,或者换句话说,对方“被到达了某种状态”,和 ...になる 有类似之处。“让”对方达到某种状态,意思就是对方是出于考虑己方所以才这么做的,所以把这一点指明出来,也就是指明双方关系中的诚意。我觉得应该是有这一层因素在里面。

回答3:

あくまで私见ですが、、、。

高いレベルで考えるなら「直接的な表现を避ける」「回りくどい表现をする」ということだと思います。

人称代名词には场所を表す「あなた」や「こちら」「あちら」が用いられますし、以前は使役も敬语として使いました。
例えば、
 社长である。社长でいらっしゃる。社长で【あらせられる】。 (ある+せる+られる)
 こうも変わったものか。こうもお変わりになったものか。かくも【変わらせたもう】ものか (変わる+せる+たまう)

より実际的な理由については、すでに述べてる方がいらっしゃるのでこれ以上述べません。
ですが「お…になる」が尊他、「お…する」が自谦をあらわすというのも示唆的ですね。
「なる」と「する」を対比する场合、一般的に前者が非意志性(状态、変化)、後者が意志性(行为)を表します。